[表紙頁]へ  副目次へ 我楽多苑 別亭]へ
物事集 二〇一九年二月版



『続・なぜ日本人はかくも幼稚になったのか』  「二月二十七日」

『続・なぜ日本人はかくも幼稚になったのか 福田 和也著 角川春樹事務所 1997年7月 2刷 ¥1,000+税』 (購入 ¥108税込み)

最近、近隣国の私達日本人・日本国への嫌がらせ/挑発が増えて来た。(産経ニュース2019.02.26
それに対して、何故、日本国政府は、“実効的な反発と制裁”をしないのか?と不満鬱々。
誇りも無く「よき人」の真似をする“知恵遅れ”も居る。(夕刊フジより “這いつくばる阿呆鳩”

だが、その不満は、単なる“他人任せの繰言”でしかない。本来は、“自分の望むことは、自分で充足するよう努めるべきだ”とも思う。
そうしたことを悟った(「自分教」)のは、随分近年のことだが、考えてみると、“自分の望むこと”と“自分がやれること”との間に、常に大きな隙間があることに気付かされる。...では、(その“望み”からずっと手前に居る)自分自身はどうあるべきか?

偶々、この本を「BOOK-OFF」で見付けたので、買って読んでみた。
各章の見出しを見ながら、眼が痛かった。(話だと“耳が痛い”が、書物だと“眼”ということ)
その見出しだけでも、厳しい批判・非難が感じられる。
 第1章 卑怯者の烙印をおされた日本人 = フジモリ大統領は「サムライ」だ
 第2章 名誉を取り戻すための戦い = 憲法九条は責任逃れの口実
 第3章 暴力と戦わない日本人 = 「気概」と「勇気」の欠如
 第4章 醜悪な醜悪な日本人 = 個性的という妄信
 第5章 気分という海を漂う日本人 = けじめのなさと「自由」の混同
 第6章 日本人であることを忘れた日本人 = 教育の目標は「よき日本人」の育成(「よき人間」などは無用!)


先般から、(私は)『日本人・日本国の歴史』を学び直しているが、確かに、「よき日本人」であれば、殊更に「(西洋風の)よき人間」などは目指す必要は無いことが、薄々分かって来た。
やはり、自分自身は、先ず「よき日本人」を目指すべきであって、それが“不満の解消”への(遠廻りではあっても)近道だろうと思う。
だから、“(日本人としての)名誉を汚されても、黙認する”ということは、決してない!(江戸の仇を長崎で、必ず討つ!)



『保守の心得』  「二月二十五日」

『保守の心得 倉山 満著 扶桑社新書 2014年4月 2刷 ¥760+税』 (購入 ¥760+税)

これまで、私は、“改革”や“グローバリゼーション”は良いことだ、と思って来た。
逆に、“保守的であること”は、何か古臭くて、やがて廃れて行くものだという感じを持っていた。
だから、以前、石原 慎太郎氏が、日本国の憲法は、“帝国憲法に戻すべきだ”と言われていたのにも、“復古趣味!?”などと、失礼にも考えていた。

だが、最近の日本が、静かに崩れて行く様を見るにつけても、どうも可笑しい!これは何故なんだろう?と考え込むようになった。
私が、今まで“考えの拠り所”にしようと思っていた「民主主義システム」も、所詮は“外来製品”らしく、私達日本庶民・市民・国民にはしっくり来ていないようなので、これはもう、あまり使えそうにない。
だとしたら、次の“(考え方の)柱”は何か?...
やはり、この著者のご意見のように、「日本国・日本民族の永続性」の理由とその重み、そして維持して行こうという「保守の考え方」が、重要なのだろうか。

だがしかし、この本の帯にある「保守がバカだと国は滅ぶ。」が真実・現実だとすると、今の保守の連中、特に“保守系国会議員ら”の多くは、(日本国や日本人を潰す法案を量産するような)「バカ」ばかりらしいから、“日本国が滅ぶ”のは必定ではないかと、不安でしかたがない。
『日本民族』にとっての敵は「異民族」(群)だが、それらは、既に内懐に深く入り込んでいたり、また国連という外部組織を利用したりして、謂わば“目立たない戦争”を仕掛けて来ている現実をみると、(憲法九条を弄るだけでは、)私達日本民族を、自分達の力で守り切ることが出来るかどうか、大変心許ない。

他人任せでは、何も改善出来ないし、かと言って、自分個人で出来ることは、選挙の時の2票だけと、多寡が知れているので、もどかしい。

その選挙の話だが、日下 公人氏が『ひとりがたり』(YouTube動画)で、「全国1区制が良い」という話をされていた。
確かに、これだと、私達個人の意見が反映し易いような気がする。勿論、功罪はあるだろうが、やってみる価値がありそうだ!
問題/課題は、それをどうやって、実現して行くかだが。




『日本一やさしい天皇の講座』  「二月十九日」

『日本一やさしい天皇の講座 倉山 満著 扶桑社新書 2017年6月 1刷 ¥760+税』 (購入 ¥560税込み)

心の底では、何となく『天皇陛下』を尊崇・敬愛してはいるのだが、戦後の米国式(?実は、GHQ式!)自由主義(+共産主義)教育に感化されて、祝日でも素直に日本国旗を掲げられず、陛下万歳も言えないまま、今に至っている。

先般も、『日本国の天皇』に関して私達日本人に、韓国人が平然と、侮蔑的な言葉(ヘイトスピーチ?!)を吐ける異様な(外交)状態だが、激しく&厳しく言い返せないもどかしさが溜まり続けている。
...これは、どうも何かが可笑しい/ヘンだ?!と感じている。
それで、改めて、『天皇』とはどういう存在か?『皇室』とは何か?を知りたい、学びたいと思い、先ず、この本を手にとってみた。

この本で、時の流れの中で『天皇』の存在(意義)が不動ものであったこと、『天皇』は、常に、(私達)民の上にあって民を慈しみ、また民は、『天皇』を仰ぎ見る存在であったことなどが分かる。
著者は、こう書かれている。
『...「なぜ天皇が必要なの?」と聞かれても、理由はないとしか言いようがないのです。あるいは、「存在そのものが尊いから」といったところが正解かもしれません。そんなの理屈じゃないと思う人もいるかもしれませんし(実際に理屈ではない)、何を言っているかわからない人もいるでしょう。しかし、この世に完璧な理屈などありません。だから、本書では理屈よりも事実を大事にしようと思います。事実は歴史からしか見えてきません...』

これを拝見して、なるほど、そうだ!と思う。・・・例えば、日常生活でも、“習うより、慣れよ”ということが当たり前だし、“ならぬことはならぬものです”という、会津藩の「什の掟」も、私達普通の“日本人”には、すっと心根に納まるから。
なので、多くの日本人が、こうした「日本の歴史」を知り、私達日本人の「立ち位置」をしっかり認識して、外国人の思想との違いを区別して対処する作法を、早く身に着けるのがいいのではないかと思った。

だが、現実は、もう余裕の無い時期に来ているのではないかと心配だ!
例えば、“日本人”といっても、ピンキリで、『天皇』を自分より下に引き摺り下ろして偉ぶって見せたい“劣悪タイプ”や、異思想・悪病などに感染してしまう“病弱タイプ”も増えているし、それに加えて、こんな「綺麗に整った日本国」を(暴力・思想革命で)わざわざ壊してしまおうという“悪質外国勢力(コミンテルン?)”も蔓延(はびこ)りまくっていて、昨今の日本は混沌の渦の中だ。
このまま放って置くと、私達の日本は、バラバラになり、“崩れ行く、さざれ石”の如くになる恐れもある。

そういえば、日本の国歌『君が代』は、改めて、見直してみると、大変深い意味があることに気が付く。
『君が代は、千代に八千代に、さざれ石の、いわおとなりて、こけのむすまで♪』
始めは、ばらばらだった石が固まって来て、やがては一つの巌にまでなる様が歌われている。
日本国は『天皇・皇室』を上に頂いて、私達民達が寄り集まり、しっかりひとつに固まって、苔が蒸すほどの長い間に渡って、この日本国(の平和な状態を)を維持し続けたい!という願いなのだと読める。
“固まる石”は、昔は豪族、藩、今は地方行政に例えられよう。

その『君が代』を式典で歌わないという女性教員や『天皇』を否定する女性国会議員らを国費(私達の税金)で養っているってのは、どう考えても異様だし、早く排除したいものだ!
(壁を作ってでも自分の国を固めようと努力している米国トランプ大統領を見習いたい!)



山辺道北半分 歩く 「二月十五日」

以前、家人と奈良・天理から桜井まで“山辺道”を歩いたのだが、その後で、天理から北上して「正暦寺」までのコースを歩いた。
ところが、健脚だと思い込んでいた自分達の“歩き”に、既にがたが来ていたようで、天理から「正暦寺」への往復だけで、力を使い切ってしまった。

今回は、その補いとして、「JR桜井線・帯解駅」から、「園照寺」を目指し、その裏側から参詣して、“山辺道”を北上しようと考えた。
ところが、その「園照寺」は、裏道などはすべて網柵があり施錠されていて[入るべからず!]だった。
そうだ!この寺は、以前から“非公開”だったのだと、遅まきながら/後で気が付いた。

実は、途中に“地図には無い抜け道”があることに気が付かなかったのも、失敗で、両側に入り口だけがあってそれらの中間部に、道が無いと見える箇所に、実は道があったのだ。(図1)
そして、南側の入り口付近には、ちゃんと道標もあった。(図2<クリック>の右端)

ただ、初めて見た時、この道標の“矢印の方向”を、誤解したのだ。
矢印は直線だから、“下から上がって来たら、このまま真っ直ぐに、どんどん行け!”という風に解釈することも出来たので、当初は、迷わずに進んで、結局は「園照寺」の裏口の方へ行ってしまったわけ。
後で引き返して来た時にも、(今度は左側になる道標は意識せず、)半分冒険心で、右側の鳥居をくぐってから行ける所まで登ってみようとして、やがて“山辺道・抜け道”があることが分かり、無事「園照寺門前」に出ることが出来たわけだ。
その後からの、“山辺道”の北上は、道を間違えることもなく(?実は、思いっ切り適当に)歩いて、「白毫寺」辺りを横目に見ながら、「JR奈良駅」までテクテクと。

(奈良)「山辺道」は南側も北側も、道標がちゃんと整備されていて、丁寧に探して行けば、左程間違えることは無さそう。
だが、時には(意図的に)“本道”を外れ、藪の中に入ったり、思わぬところから這い出て“本道”を発見したりするスリルも、なかなか愉しいものだ。“脱道”は、我々普通人が出来る“ささやかな冒険”かな?と思っている。



『財務省と大新聞が隠す本当は世界一の日本経済』  「二月十一日」

『財務省と大新聞が隠す本当は世界一の日本経済 上念 司著 講談社+α新書 2016年11月 7刷 ¥880+税』 (購入 ¥108税込み)

これまで、私達一般庶民は、日本(国)は、国際残高が千兆円を超す“大借金国”だという言葉を信じて、倹約にこれ努めていたし、増税も止む無しと思っていたのだが、どうやら“借金”なんてウソらしいことが分かって来た。

この本では、日本国債や日本銀行券(紙幣)を多量に増刷発行すれば、日本の景気は上昇するし、税収も増えるという。
逆に、“消費税増税”などをすると、税収は逆に減じる上に、デフレ状態からは抜け出せず、GDPも増えず、それに伴う予算増なども出来ない。
なのに、財務省(や政府)は“増税”を強行し、“デフレ状態”を続けようとしているそうだ。
...それはけしからん!と書こうとして、ふと、先般拝見した、『CGS じっくり学ぼう日本近現代史』の中で倉山氏が、「物事は上から目線で見て、批判しなければいけない」と言われていたことを思い出した。
何故、財務省や日本政府が、今以上に見込めるはずの経済成長を、敢えて抑えようとするのか?と、ずっと上から眺めてみた。

[世界第二位の位置]
その理由は、もしかしたら“対外債権”(主に対米)が増え過ぎて、米国から睨まれるのが怖いからではないかな?
(勿論、そうした単純な理由だけでもないだろうが)
今の日本の資産の多くは、米ドルのままで海外(主に米国)に残っているわけだし、国内経済が活性化すれは、そのドル残高も更に増えるわけだ。
出過ぎた杭は、必ず打たれる”という喩えは、昔からの国際政治・経済競争下では真理だし、日本が、米国を凌いでトップに上がれるほどのタフさも無い現状では、決して米国の上を行くことは出来ないし、させてももらえない。
現に、第一位の米国は、第二位の“中国叩き”にやっきになっている状況だから、日本は首をすくめて、やり過ごすしか手は無いし、同盟国として、大人しく世界第二位か三位に甘んじているより仕方がないわけだ。
しかし、そうした対外戦略的な面では抑制的であっても、国内外向けの諸施策には、やはりお金が必要なはずだし、また、経済学者・評論家達は、それを充当する手段があるという。

[GDPに明記されない成長戦略]
お金が出来れば、真っ先にやるべきは、“国内外の老朽化施設群の全面更改/インフラ更改”や“自衛隊装備費や人件費の充実”などだが、これもGDP比に関係するから、それを目立たせないような(内密の)“経済成長手法”は欠かせないだろうと思う。
だから、世界(特に米国)が注目している日本の経済成長や輸出超過を、何とか誤魔化す戦略も織り込まねばならないだろう。
もし、それが“今のデフレ政策”だとしたら、財務省を始め、防衛省経産省などの戦略の無さや稚拙さということになる。

グローバリズムの制御]
それに、蝕まれてきている“私達日本人の独自性=慎重さや丁寧さ”を回復するためには、そろそろ行過ぎた“グローバリズムの抑制”や何やら怪しげな“新自由主義の排除”なども考える必要があり、(私達日本庶民・市民が感じている)“国内政策への諸不満”の解消にも留意すべきではないか?
この本を読んでみて、そんなことを考えた。



『国際法で読み解く世界史の真実』  「二月一日」

『国際法で読み解く世界史の真実 倉山 満著 PHP新書 2016年11月 1刷 ¥820+税』 (購入 ¥460税込み)

ネット(YouTube)で、「CGS(Ch Grand Strategy)」や「チャネルくらら」を拝見して、大変面白く話されるので、詳しく書かれた本も読みたくなった。
BOOK-OFF」で探したら、“百八円棚”には見当たらず、殆どが“高価棚?”に並んでいたのだが、迷わずに数冊買って来た。
(中古本購入だけでは、応援にもならず、失礼かもしれないので、この後、通常書店に寄って、別の新刊も2冊ほど買った)

この本を読んでみて、日本人の道徳律が、欧米(謂わば、国際社会)の基準から、(高い方に)乖離し過ぎていた為に、実際には“日本の方が、水準が随分高い”にも拘らず、戦後、逆に、国際的な基準(国際法)に無知な為に“低い!”と思い込まされて来たということを知った。

人権』という言葉にしても、日本人は(二千年の歴史の中で、培われて来て)当たり前のことだったのに、国際社会では、お互いが約束して、明文化しなければ、守り通せないもの・こと(権利)だったそうな。
まぁ、私達日本人も、そうしたことに無関心だったし、国際社会がそんなに“野蛮”(!)であり、“蛮行禁止=人権擁護を明文化(!)”しないといけなかった歴史があったことは、薄々は聞き知っていたのだが、ちゃんと認識していなかったのは、甚だ拙い!ことだったと思う。

昨今の日本では、“人権無視!人権侵害!人種差別反対!差別撤廃!”と騒いで、やたら法律などを作らせるけれど、実は、その恩恵に浴するのは、外国人だけであったり、犯罪者であったりと、本来の一般日本人日本人社会にとっては、あまり“益にならない/不利益を与えそうな人達”の権利を増すだけの結果になっている。(私達日本人は、馬鹿ではないが、ホントに“お人好し”だってこと!)

日本国内に入り込んで来て、自分達の権利を、私達日本人から、余分に/横取りしたい連中は、巧みに政治的に働きかけて、“日本の法律で明文化する”こと企んでいるわけだ。
今の私達は、いっそ、“鎖国宣言”をして、“外国(朝鮮、中国も含めた)人別扱い令”でも制定した後で、改めて「国際法」に則って、日本国を再開国して、(日本国内在住・去来の)外国人”を正しく扱うべきではないかと思う。


[表紙頁]へ  副目次へ